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Le blog de kyukko
31 mai 2010

(仮) 瞼の裏の情景 その10

人の記憶はよくも悪くもすばらしい。新しい町並みになれば、昔ここに何が建っていたのかなど すぐに忘れてしまう。 700キロ離れた地に転居した元同級生は後に奇跡的にわたしの目の前にもう一度あらわれたのは わたしが23歳のときだった。2人が真っ先に向かったのは、原点の田奈中だった。正門前にしばしたたずんだ。 そのときは、校舎はすでに改築済みで、2人が学んだ木造校舎は跡形もなかった。現在の校舎の中には2人が 机を並べた校舎も残っているには残っているのだが、どうも何かが違う。20歳のときに掘り返そうと約束をして...
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31 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その9

わたしの言う長津田の範囲とは、どこら辺りを指すのだろうか? けっきょく生育暦に照らすと、県公社・長津田団地~おのたち~長津田小学校、 そして田奈中学校までの通学路、および通勤通学で利用した長津田団地~長津田駅北口、 そして買い物と塾通いで行ったサンコー(現 マルエツ)付近までを指すのだなと今回感じた。 同じ町内でありながら、長津田小学校からつくし野方面へ向かう街区や、長津田小学校の分校の あったR246付近や、いぶき野も玄海田も、サンコー(マルエツ)よりも成瀬寄りも、南口界隈全般 は、住んでいた当時から異郷に近い感覚だ。「変わった!」という実感は伴うが、北口界隈の変化...
31 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その8

パソコンができて以降、自分を含め本来ならば情報を発信できる立場に成り得なかった人たちも ホームページやら、ブログやら、ツイッターやらで今は気軽に発信できるようになった。 表参道に 行く前、偶然埼玉に住む人が、団地を撮影しては自身のブログで更新しているのをみつけた。 その中に、長津田町内の団地も紹介されており、かつての住まいのあった県公社・長津田団地が 今も当時と同じままであることは知っていた。しかし、この眼で実際に確認してみたくなった。 住所は長津田1丁目22番地だが、最寄駅は田奈駅だ。田園都市線のガードをくぐり、急坂を上りきると、...
31 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その7

約四半世紀ぶりに半蔵門線~田園都市線に乗ると、各駅の思い出が走馬灯のように よみがえり、ゆったりとした車内は読書タイムに最適で、せっかく家の近くの公立図書館で 借りている本を開こうと、かばんに忍ばせてきたものの、流れる車窓と思い出が交錯して 半ページも読み進まない。そうこうするうちに電車は田奈に到着した。表参道では長津田まで 切符を買ったのだが、高校通学のときは朝は主に田奈駅を利用していたので、おもいきって 田奈で下車してみることにした。駅の構成は当時も今もほとんど変わらない。乗降客の少ない のも同じだ。当時の田奈駅で目立った看板は「梅津産婦人科」だか「梅田産婦人科」だか...
31 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その6

青葉台にはあとひとつ忘れらない思い出がある。 青葉台 → それは、わたしが短大に入学してすぐのことだった。高1からわたしは自発的に青葉台にある 青少年センターの自習室にしばしば出かけた。団地暮らしで自室と呼べるほどのスペースもなく 勉強をしていても、その様子をいつも背後から母親に見られているのが、なんとなく苦痛だったのに加え センターに定期的に通いたくなる理由が、もうひとつできたからだ。それはセンターからの帰路、青葉台から 徒歩で田奈へ向かい、最終的に自宅に戻ることだった。青葉台から田奈へ町名が変わる付近は、ちょっとした...
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31 mai 2010

(仮) 瞼の裏の情景 その5

市ヶ尾・藤が丘間 → 現在の東名・横浜青葉ICは長らく手付かずの場所だった。 あの東急をもってしても 土地を買い占めることはできなかった。そのため上りの電車の車窓からは、藤が丘を すぎて市ヶ尾に向かうとき、横浜青葉IC付近は緩やかにカーブをし、車体がやや傾くのだが、 眼前には畑しかないので、遠く川和高校は見えずとも、高校の方面がよく見渡せた。 そこは、高校に通学する当時の屈折した心に、いつも後悔と落胆の念を生ませる場所だった。 ア・テストの点数が足りず、憧れの川和高校に進学が無理といわれ、市ヶ尾高校を検討するよう...
29 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その4

田園都市線の名の由来は、イギリスの田園都市構想から来ているという。 そのせいか、かつての農村から土地を買い上げ、原野に整地して寝かせて 時期が来ると、宅地分譲されて、この界隈の町は発展してきた。 子どもの頃は、駅舎こそ立派であれ、駅前からして閑散としていた沿線の駅も 多かった。あとは家が建つのを待つばかりとなった状態のひな壇状の乾いた土色(1)と、 コンクリートで固められた側面壁の灰色(2)と、そんな過酷な中ですら生えてくる 草花類の緑色(3)の三色が目立っていた。 この田園都市線沿線の現況の町並みをみると、その田園都市構想どおりに着実に...
28 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その3

電車は鷺沼を過ぎると横浜市内へと入っていく。最初の停車駅は、たまプラーザ。 たまプラーザ → 車掌が駅アナウンスで、たまプラーザと呼ぶたびに、わたしたち 子どもは歓呼したものだった。なにしろ駅名が珍しい。 ひとりが「プラーザだって(笑」と何度も何度も言うと、残り全員は 笑いをこらえるのに必死だった。わたしはいつもこらえきれずに 笑いだしてしまうのだった。塾通いの小学生たちのほんのささやかな 息抜きの一コマだったのかもしれない。 あざみ野 → ここは短大のある駅。新しい駅。駅開業と同時に短大も開設され...
28 mai 2010

(仮)瞼の裏の情景 その2

二子玉川で地上にあがると、田園都市線として中央林間まで今度は走り出す。 田園都市沿線のいくつかの駅は、自分の生育暦とつながってくる。 溝ノ口 → 高校通学時の乗り換え駅。長津田(または田奈)から乗車してここで 南武線に乗り換えだ。通学時、当時からたまプラーザあたりから混雑の 度合いが増してきて、あまりにも混んで、下車するとき靴がぬげて、 さらに間の悪いことに、電車とホームの隙間から線路上に靴が落ち、駅員に 靴を拾ってもらったこともあった。 小学4年生のときは、当時住んでいたところから最も近い音楽学校として溝ノ口にある...
28 mai 2010

(仮) 瞼の裏の情景

ここからはしばらく日本語で書きます。おいおい仏訳していくつもりです。 今は記憶が新鮮なうちに、その折々に浮かんだ気持ちを素直に書きとめて おこうと思っています。 ~~~~~ 昨27日、わたしは表参道にでかける機会に恵まれた。専業主婦である自分 にとっては、日常生活を送る地域から出ることは滅多にない。ましてや 昼間単身で都心へ行く機会など。 外出先のビルの地階は地下鉄乗り場と直結していた。 帰路、わたしは迷わず半蔵門線に乗りこもうと決めた。懐かしい思い出のたくさん 詰まった長津田で途中下車して、駅周辺をすこし散策してみようと思ったのには...
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  • Bonjour à tous. Je m'appel KYUKKO. J'habite à la ville de Minamiasigara au banlieu de Métropolitan de Tokyo, JAPON. Je vais vous écrire l'information touristique de ma ville, MINAMIASHIGARA et ma vie quotidienne. Allons -lire !
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